かっぱ寺の河童 続編、浅草の牛鬼のレポートです。
モザイクは、偶然写ってしまった人へのプライバシー保護です。残念ですが霊障ではありません。
三年前にこちら道中記にUPしたかっぱ寺ですが、ここで新展開があったので続編のレポートをしたいと思います。
合羽橋本通りで時折見かける「かっぱ村」の正体。それから、水掘りの工事を手伝った隅田川の河童の正体の2編に分けて発表です。
まずは、謎のかっぱ村についてからいきますよ。
あれは3年前。かっぱ寺の河童を調べに河童橋本通り行ったとき。
河童のモニュメントと共に見かけた「あさくさかっぱ村」の看板。かっぱ村とはなんだろうと気になったものの情報が見つからず、謎のままでした。
ですが!!
ついにかっぱ村の全貌が明らかになりました!!
なんと今回、あさくさかっぱ村の村長と呼ばれる人物に直接お話を聞くことに成功しました。
お話によると、かっぱ村は全国に40村あり会員は300人ほどいるとの事です。
かっぱ村は河童連邦共和国に属しており、共和国では河童新聞を発行し、全国から集まって河童サミットという交流会を行ったり、河童にちなんだイベントを行っているそうです。
河童連邦共和国の建国は1988年(昭和63年)9月9日です「かっぱ新聞」の創刊号には、建国の目的を平等・博愛・ロマンとユーモアのもと、明るい、楽しい環境を作り、かっぱを通じて国民相互の親睦を計るとともに、かっぱに関する情報交換などにより友好の輪を広げる」と掲げてあります。
「河童連邦共和国」公式ページより
さらに河童連邦共和国公式ページによると、河童を愛する人たちがインターネットで集まって研究する「河童大学」なるものが存在する事が判明しました。
河童連邦共和国の一つである浅草かっぱ村は、主に本通り商店街の方々で構成されている様です。
前回のレポートで紹介した河童のモニュメントも、15年前に町おこしの一環で村長さんを中心に商店街で考案し、デザインされたものだと話して下さいました。
今回明らかになった「かっぱ村・河童連邦共和国」には、形を変え・姿を変え・今も存在し続ける河童の奥深い世界を感じます。
続いては、合羽屋喜八を助ける為に隅田川から駆けつけたという河童の正体に迫りたいと思います。
住民たちと手を組み、難航していた水堀の工事を見事に完成させた、その立役者である隅田川の河童たちは一体何者なのか?
それを知るためには、当時の「隅田川そのものと人々との関係を知る必要がある!」と思いいたり、ちょっくら調べてみました。
歌川広重・葛飾北斎などの浮世絵師による隅田川を題材にした作品が多く残され、人買いに連れ去られた梅若丸と母の悲劇を描いた隅田川ものなど能や歌舞伎での舞台にもなり、さらに舟遊びも盛んだった事から、江戸の文化を育んだ場所である事が伺えます。
その一方。江戸川と荒川を合流していた隅田川は洪水による水害が深刻だったようで、江戸幕府は治水・埋め立て事業に力を入れました。その結果、現代の荒川の下流という川筋になったそうです。
人々が集まり・文化を育む・・・江戸のシンボル的な存在であった隅田川は、同時に人々が制御しきれない自然の驚異の対象でもあったようです。
さらには、こんにち隅田川に面した台東区の人々は、川を挟んだ反対側にある隅田区を「川向こう」と呼ぶこともあり、その昔川を挟んだ隅田区側は下総国に属してたそうです。つまり、浅草周辺で暮らす人々にとって「川向こう」は日常とは異なる「異界」であり、隅田川はその「境」でもありました。
江戸に住まう人々にとっての隅田川は華やいだ盛り場であると同時に畏れを抱く特別な空間でもあった。「河童がいる」と信じられても何ら不思議ではないシュチュエーションではないでしょうか。
このような背景の中、江戸以前から建立されていた由緒ある古い寺社が、江戸の人たちの参拝を集めた。と、たばこと塩の博物館の特別展「隅田川をめぐる文化と産業」の解説にありました。1657年に起きた大火の影響による大規模な再開発の前から、隅田川流域には人が住み着いていたとの事です。
先に挙げた水神の森と呼ばれていた隅田川神社や今回訪れた待乳山聖天もその一部です。
江戸以前の土着の人たちによる祭神・信仰については信憑性のある情報が見つからず、現代の待乳山聖天では仏教の歓喜天が祀られていました。
ただ、もし古くから隅田川流域には住み着いていた人たちが、新たに江戸の住民となった人々と違う生活様式であったと仮定するなら、「自分たちとは異なる人智を超えた存在→河童」という認識の変容があってもおかしくないかも知れません。
隅田川から来た河童の正体ですが、実は以前多田先生の妖怪講座で「かっぱ寺に伝わる河童の正体は穢多・非民」と聞いていたので(うろ覚え)、その線も探ってみました。
隅田川の河童が水害に困る人たちを助けた文化年間(1804-17年)の100年ぐらい前の享保元年(1716年)から享保6年(1722年)の間、浅草溜という非人小屋があったらしいです。
なんでも、弾左衛門(だんざえもん)という穢多・非人身分の頭領がいて、江戸では組織的な管理を行っていたとの事です。また、別の資料には穢多・非人の人たちを河原や海岸や未墾地などに集住させたともあります(詳細な年号は記されてません)。
浅草溜は老朽化が酷くも修復費用が支給されず崩壊して無くなったとありましたが、そこに集まった世帯・人々が住む場所がなくなって、多くの人たちが隅田川沿いに移動して定住した可能性は十分に考えられます。
となると、伝承が生まれた100年後も多くの穢多・非人の人々は江戸・浅草に多数いたとも考えられ、隅田川の河原にも多く居住いていても不思議ではありません。
予断ですが、統治していた時に穢多・非人の男性は髷を結うことが許されず、ザンギリ頭にしていたとありました。河童の頭お皿もザンギリ頭に見えなくはないですね。
ここでかっぱ寺の河童の伝承に戻ります。
深刻な水害を打破するため合羽屋喜八が始めた水堀りの工事であったが、やがて私財が底をつき諦めかける。その様子を見ていた以前助けられた隅田川の河童たちが駆けつけ・工事を手伝い、見事完成させる事が出来た。
この「河童」の部分を隅田川流域に住んでいた穢多・非人の人々に当てはめてみると、十分ありそうな話に思えてきます。
江戸の穢多・非人の人たちは、上の身分の人たちと気軽に交流が出来ないほど厳しいものだったと云われています。もしかしたら、隅田川から助けに来てくれた人たちの正体をおおっぴらに出来ないから河童に割り当てた・・・のかも知れません。
江戸に生きる人々にとって隅田川そのものがシンボルであって、人智を超えた畏敬の対象でもあった。
隅田川から来た自分たちとは異なる者たちは、その正体が何であれ、出会った人々にとっては河童であったのではないでしょうか。
かっぱの続編をUPしたのは、よろずノ掲示板で話題になっていた「かっぱハイの由来」をかっぱ村粋品店さんで肉まんを買ったときに尋ねた事がきっかけです。
かっぱ村村長の森本さんに取材に応じて頂いたことで、かっぱ寺の河童の調査が進展し、続編を公開出来ました。
ご協力頂いた皆様にこの場を持ってお礼申し上げます。誠に有難う御座いました。
河童の正体については、前回モヤモヤしていた部分を限定して調べ直しました。
隅田川とそこに生きた人々との関係性・精神的つながりは把握できたものの、具体的な河童の正体は?と言うと、「~かも知れない」ってだけで確証まで至らない状況に終わってしまいました。
河童連邦共和国の世界も何やら壮大でほんの触りしか触れていない感じがするので、そちらも含めて河童の第三弾をUPするかも知れません。そのうちに(笑。
文:妖怪館
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全国の牛鬼は河童ほどではなくともバリエーションは様々なようで、大まかに纏めるとこんな感じです。
人に害を為すと判断され退治される。それだけでは無く、鎮めるために後に祀り上げたりする。日本の鬼の特徴が共通していることが分かりますな。
加えて、地域によっては疫病退散の厄払いとして信仰をされるのが牛鬼の特徴でしょうか。海や水辺に現れるのも関連性があるかも知れません。
「それじゃあ浅草の牛鬼は?」となりますね。
浅草寺に「牛のごとき者」が突然現れ寺を走り回った。食堂に集まっていた僧侶50人がそれを見て、14人が病気になり起き上がれなくなり7人が即死した。
という記述が、源頼政が記したという史書「吾妻鏡」の建長3年(1251)3月6日の項にありました。原文の写し
吾妻鏡とは別に「新編武蔵風土寄稿」(幕命により文化7年(1810)-天保元年(1830)に書かれる)にかつて牛御前と呼ばれてた牛嶋神社(東京 墨田区)についてありますが、こちらも牛鬼と縁があるようです。
浅草川(今の隅田川)から牛鬼のごとき異形が現れて牛嶋神社に飛び入って社宝・牛玉になったと書かれています。
牛嶋神社の案内にも、
「建長3(1251)年には牛鬼が社中を走り回り、落として行った牛玉を神宝としたという伝承も残る。」
とありました。
また、出典元は分からないけど「牛鬼が消えうせた後、疫病が止んだのでそれを祀った」という逸話もあります。
「新編武蔵風土寄稿」には浅草寺のことは書かれていないですが、同じ建長3年という事もあり同じ出来事について述べているっていうが主流の見解のようです。
となると、牛鬼は先に浅草寺を駆け巡り、隅田川を渡って対岸にある牛嶋神社に飛び入ったことになりますかね!?
それから、牛嶋神社には撫牛(なでうし)というメランコリックな眼差しの牛の像があります。
撫牛
掲示板の解説より
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。牛島神社の撫牛は体だけではなく、心も治るというご利益があると信じられています。
また子どもが生まれたとき、よだれかけを奉納し、これを子どもにかけると健康に成長するという言い伝えもあります。
(「撫牛」墨田区教育委員会)
浅草に出現した牛鬼は、川を挟んだ牛嶋神社と深い繋がりがあるようです。
さらに「病(疫病)をまき散らすと同時に祀れば病から守ってくれる」のは、厄払いを担う牛鬼の特徴の一つでもありますね。
「厄払いを担う」役割といえば、牛嶋神社のご神体・縁起もその裏づけになっているのではないでしょうか。貞観二年(850)に慈覚大師が素戔嗚尊の化身(権現)の老翁に出会い、神託を受けたのが由来となっています。
素戔嗚尊は、母である伊弉冉尊が亡くなった後、伊弉諾尊が阿波岐原で禊ぎ祓いをせられたときに生まれた神様とあります。すなわち!穢れを請け負うという特徴を生まれ持っている贖罪神ということになります。
さてさて。素戔嗚尊をご神体とし疫病を退散させると言えば、京の祇園を連想する人も多いのではないでしょうか?
気になりますか?そうですよね。気になりますよね。フフリ
ちなみに祇園信仰というのは、平安の都で疫病が流行したときに、「原因は政治的に失脚して処刑された人の怨みによる祟りであろう」と考え、怨霊を「御霊」として祀ったのが由来です。現代では日本三大祭と相成り、祇園祭が年に一度壮大に行われていますね。(と言っても、京は遠くて見に行ったことはないのですが)。
その祇園信仰ですが、寺島良安の和漢三才図会に
「牛頭天王 神田 四谷 品川 牛島の四所 祇園の勧請(かんじょう)」
の記述があるので、祇園の神さまの分霊を今の牛嶋神社に迎えた可能性が伺えます。
というのも、祇園の神さまは素戔嗚尊と牛頭天王と習合されているからです。
少々ややこしいのですが、
飛鳥時代(656年)、伊利之使主が朝鮮から渡ってきた時に日本に根付いた疫病を司る牛頭天王の信仰が、平安時代に入り疫病を御霊(怨霊)の祟りとしてそのものを祀る御霊への信仰と習合し、穢れをその身に請け負う日本の神である素戔嗚尊と習合した。
ということだと思います。
一方、牛嶋神社の縁起に登場する素戔嗚尊は、
「国土脳乱あらば、【われ首に牛頭を戴き】、悪魔調伏の形相を現し、国家を守護せんとす。」
と神託をしています。(「新編武蔵風土寄稿」より)
建長3年(1251)3月6日に浅草川(隅田川)から現れた牛鬼は、京の御霊信仰=祇園をルーツとし、穢れを身に纏い・請け負う災厄をもたらす妖怪であると同時に病気から守る神さまであるのではないでしょうか。
さかのぼるは646年大化の改新の時期。場所は牛嶋神社から川を挟んだ向かいにある浅草寺。
隅田川で猟師により引き上げられ祀られた聖観音像は、勝海上人の手で秘仏にされたと「浅草寺誌」にあります。
その背景には、王権が叛乱防止のため、庶民の保有する武器狩りを命じたうえ「良民・賎民」の別を明らかにするようお達しがあり、その中で、元々庶民の浅草聖観音であったのが王権維持のための尖兵へと変貌していったそうです。
現代ほど(?)成熟していない王権により賎民とされ故郷を逐われた人たちは、「川向こうの向島(向こうの川洲)に、浅茅ヶ原に、さらには荒川・利根川の上流はるかにまで、川原者として遂い上げられ、耐えがたき蔑みに耐え、忍びがたき屈辱を偲んで、ひっそりと隠れ住んだ」とあります。
「建長3年(1251)3月6日に浅草寺の30人の僧侶を殺傷した牛鬼の正体は、故郷を追われ蔑みや屈辱を受けた人々の王権への抵抗だったのではないか。」と考察しています。
牛鬼も同一視された素戔嗚尊も、一切の穢れを請け負う神さまである事が分かりました。
さらに浅草の牛鬼のルーツである祇園信仰の由来は、政治的に失脚して処刑された人の怨み・世に恨みを持って死んでいった御霊を鎮めることから来ていると言われています。
鬼の日本史には「大人」は「ウシ」と意味し・「隠忍」は「オニ」を意味するとありましたが、王権の維持にそぐわない人たちを罪・穢れを背負う牛鬼とするのは、不自然とは言い切れないと思いました。
このちょっとセンチメンタルな考察がどこまでが真実なのかは、この時点ではよく分かりません。
ただ、今ある自由や平等は尊いものである事を示していて、過去に牛鬼・鬼とされた人たちが今の私たちに「本当に守るべきものは何なのか」を投げかけている。そんなメッセージ性がありますね。
今回浅草の牛鬼を調べるにあたって、定期チャット会に遊びにきてくれる兵主部さんに何度か助けていただきました。有難う御座いました。
親切に対応して戴いた台東区と墨田区の図書館の職員さん、撮影を快くOKして頂いた牛嶋神社様にも感謝です!
撮影当日は結婚式を挙げていて邪魔していたら申し訳ないのですが、おめでたい瞬間に偶然立ち会うことが出来て嬉しかったです。末永い幸せを心より願います。(見てないと思うけど)
「排斥されるものとしての牛鬼」の章ですが、賎民とされ故郷を逐われた人たちは、後の穢多・非人と呼ばれる人たちに含まれるかも?と思いました。
その辺について調べてみて、色々進展がありました。
気になる人は下の「関連ページ」から続きをどうぞ!
文:妖怪館
淺草寺に怪牛現はる 6日 丙寅 武蔵國淺草寺に牛のごとき者忽然として出現し、寺に奔走す。時に寺儈50口ばかり、食堂に集曾(しきゑ)するなり。件の怪異を見て、14人たちどころに病痾(びょうあ)を受け、起居進退成らず。居風と云々。七人即座に死すと云々。(「全譯吾妻鏡 第1卷」より 新人物往来社)
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牛鬼の記事を書いているとき、「穢れを請け負う贖罪としての牛…う~ん。別の何かであったような…」と、引っかかってました。
記憶を辿って調べたら意外なところにありました。ユダヤの大贖罪日「ヨム・キップール」です。
旧約聖書のレビ記・出エジプト記に記されていて、祭司が雄牛(羊・他の動物もある)を祭壇でほふり、神への生け贄として捧げる事で自身・家族・ユダヤの民の罪けがれを贖う宗教的な儀礼のようです。
生きた牛を殺害して生け贄として捧げる慣習は、現代人からしてみたら凄惨で衝撃的な内容でありますが、罪けがれは死そのものであってそれを神に捧げることによって自分たちの「生」に繋げよう、という切実な願いが込められていると思いました。(個人的な感想です)
どちらもにしても、風土も文化も異なる遥か海の向こうの地でどこか共通する風習が根付いているの事実は興味深く、信仰や民族の違いがあったとしてもその垣根を越えて認め合っていける可能性を示唆しているのではないでしょうか。
ユダヤから派生して日本でも身近となっているキリスト教ではどうなのでしょうか。今回参考にした「メシアニック運動 情報サイト」によれば、キリストが自分自身を捧げた事で贖罪を成就させたとあります。
なので、古代ユダヤにあった生け贄を捧げる儀礼は行っていないようです。
参考:聖書(日本聖書協会)
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