妖怪道中記 民話・伝承編
伝承編-妖怪レポ番号14 2020/08/24
2016年に浅草の牛鬼をレポートしました。その後、「江戸の被差別民」を軸とした浅草の郷土を調べたことで、新たに分かったことや考察をまとめていきます。
「浅草の牛鬼 二」では牛嶋神社で牛鬼が落としたと伝わる牛玉について。次に続く「浅草の牛鬼 三」では、沢史生氏が主張していた浅草の牛鬼がかつて大和王朝を追われたまつろわぬ民だったという「牛鬼大規模デモ説」。
2回に分けてレポしますよ!
1251年(鎌倉・建長3)。
浅草寺にて「牛のごとき者」が突然現れ寺を走り回り、食堂に集まっていた僧侶がそれを見て、14人が病気になり7人が即死した。
その後、牛鬼は隅田川(当時は浅草川)を渡って今度は牛嶋神社を走り回り、後に社宝となる牛玉を落としていった(もしくは牛玉になった)。
そう。今回明らかになったのは、牛鬼が落としたという「牛玉」についてです!
なんとも偶然と言いますか、人権セミナーで牛嶋神社いったいはかつて国で定めた牧場があったことを聞きました。
律令時代、養老
東京都のJAグループの独立的な総合指導機関である「JA東京中央会」のサイトでは、同様に浮嶋牧場という牧場が設置されていたことが書かれていたので紹介します。
文武天皇(701〜704)の時代、現在の向島から両国辺にかけての牛島といわれた地域に、国営の牧場が設置されたと伝えられ、この周辺もかつては牛が草を食んでいたのどかな牧場で、当牛嶋神社は古代から牛とのかかわりの深い神社であったといえます。
「浮島の牛牧 | 東京農業歴史めぐり | 東京の農業 | JA東京中央会」より抜粋
さてこの厩牧令ですが、馬牛の飼育・牧場の運営・伝馬の設置など牛馬に関する取り決めを記した律令のようです。
その26条にこのような内容が書かれています。
官の馬牛が死んだならば、それぞれ、皮・脳〔なづき〕(=馬の脳髄)・角・胆〔い〕(=牛の胆嚢)を取ること。もし牛黄〔ごおう〕(=病気の牛の胆に生じる一種の結石で、薬として特に珍重された)を得たならば、別にして進上すること。
牛鬼が牛玉を落とした牛嶋神社の一帯は律令時代に国営の牧場(もしくは天皇の勅使牧)が作られ、
さらに胆石かかった牛の内臓から取れる「牛黄」を妙薬として国に献上が義務付けられていたことになります。
知ってる方も多いと思いますが、牛黄は今でも希少な漢方のひとつであの「求心」にも配合されているみたいですよ。
「日本がはじまりから令和になるまで、ずっと妙薬として使われているんだー」と考えると、いやはや驚きですね。
また、中国の古い薬学書「
驚癇寒熱 熱盛狂痙 除邪 逐鬼
除邪…つまり邪を取り除く。
そして人を死にいたらしめる「病」へ誘う存在である中国で信じられていた鬼。その鬼を追いやる・祓う霊的な効力もあると信じられていたことになりましょう。
牛鬼が牛玉を落とした牛嶋神社は律令の時代から牛馬の牧場があり、牛の死体から採れる牛黄は当時から妙薬として献上されていた。
牛黄は病気治癒と同時に鬼を祓う霊的な効力があると信じられていた。牛嶋神社の主神・
この事から、
病を振り撒き・人を死に追いやる「牛鬼」が
→希少な妙薬・霊薬である「牛黄」に転じた
そう推測します!
どういうプロセスでそうなったか、また気になるところです。
ちょっと余談になりますが、
そこには、死んだ牛の皮を剥ぎ取った「河原人」がはらわたの中から牛黄を取り出したとあります。
つまり、牛黄を手に入れるためには死んだ牛の解体が伴うわけですね。
さらに脱線ですが、江戸時代で処刑した罪人を解体を行っていた人たちが医療発展に貢献したり―。
「古代から生死を司り・神との仲介者であったと信じられていた河原の者が、何らかの関わりがあったのかも?」
などと想像が膨らみます。
河原の者は一部の社会から排斥された人々ではありますが、ただそれだけではなく、どこか超越した存在へのロマンを感じずにいられません。
ひとまず牛鬼レポはいったんここで区切って、次のレポに沢氏の「牛鬼大規模デモ説」についてをアップしたいと思います。
牛鬼→牛黄となるプロセスの一例になるかも…いや、う~んどうだろうか。
…ちょっとわかりません!(開き直る)
最後にテキストの掲載許可を頂きました「JA東京中央会」様に感謝申し上げます。有難うございました。
それではまたお会いしましょう!
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