妖怪道中記 妖怪レポ番号07から09

狐の穴稲荷寛永寺の水呑み龍かっぱ寺の河童のレポートです。

モザイクは、偶然写ってしまった人へのプライバシー保護です。残念ですが霊障ではありません。

かっぱ寺の河童(合羽橋/曹源寺)
妖怪レポ番号09 2013/10/24


現在、業務用の調理器具やサンプルなど立ち並び賑わいを見せる 合羽橋道具街 はかつて「新堀川」と呼ばれていました。

その新堀川の由来となった河童にまつわる伝説を紹介します。

合羽橋道具街のお店 かっぱ寺

調理器具のお店のショーウインドウ

かっぱ橋の河童とは?

庶民の文化が花開いた江戸の文化年間(1804-17)の頃の話です。

雨合羽アマガッパ商を営んでいた合羽屋喜八(「合羽川太郎」の愛称でも呼ばれる)という人物がいました。

喜八が住むその場所は水はけの悪い低地で、雨が降ると洪水になり、人々は困窮をしていました。

そこで喜八は私財を投じ、排水をするために掘割工事で隅田川から水を流すという計画を建てました。

喜八はかつて隅田川の河童を助けたことがありましたが、この時隅田川の河童たちが駆けつけ工事を手伝い、掘割工事は完成しました

そして、この河童を見たものは不思議と運が開けたと伝えられています。

やがて、繁栄の義人・喜八と共に祀られ、河童は「河童大明神」と呼ばれ福の神として親しまれるようになりました。

更に、合羽橋にある交差点付近にあった合羽橋の名称はこの伝承に由来すると云われます。(地元の武家屋敷の侍や足軽が、内職で作った雨合羽を近くの橋で乾かしたから…という説もある)

河童を訪ねて

道具街のかっぱ河太郎像 かっぱ寺

かっぱ河太郎像

今は、合羽橋道具街に黄金色(?)のご立派な河童の像があります

なかなかのイケメンです。

漁師の出で立ちにも見えますが、何か由来があるのかは分かりませんでした。

河童大明神は商売繁盛の神とされています。

土地に繁栄をもたらし人々に福をもたらた河童は、商売繁盛の神へと転化していったのではないでしょうか。

月日は流れ…江戸の中心は東京という都市になり、今は合羽橋道具街へと変貌と遂げました。

不思議な土地の縁を感じます。

さて。道具街の途中を曲がり、合羽橋本通りを進んでいくと…

通称かっぱ寺と呼ばれる曹源寺にたどり着きます。

そうです。このかっぱ寺に噂の河童大明神様が祭られています。

そんなワケなので中に入りましょう。

通称かっぱ寺曹源寺 かっぱ寺

商店街にひっそりと佇むかっぱ寺こと曹源寺

境内のいたるところに

かっぱ寺の河童像1 かっぱ寺

お出迎えしてくれるかっぱのぎーちゃん

河童が

ここにも  あそこにも

かっぱ寺の河童像2と3 かっぱ寺

だいぶ河童推しみたいです

(個人的には入り口付近にいた「かっぱのぎーちゃん」がお気に入りです)

時代を感じる古い像もありますが、近年作られたと思われる新しい像もあります。

合羽川太郎の墓 かっぱ寺

合羽川太郎の墓と伝わっている石碑。

『 てつへんへ手向けの水や川太郎 』

という句が彫られています。

お堂がありました。

河童のお堂のようです。

河童大明神お堂 かっぱ寺
きゅうりのお賽銭 かっぱ寺

お賽銭箱の上にキュウリが!!!!

なんていうかこれ

キュウリのバーベキューに見えるのだが・・・

(次行くときは、キュウリ持参かな?)

お堂の中への侵入はあえなく失敗しましたが、ガラス越しに覗く事が出来ました。

曹源寺の御姿の説明には

「波に乗る(時勢の波に乗る)立像(立ち上る)で、

左手に財宝袋を持ち、

右手で客と福を招く縁起の良い御姿」

とあります。

また、河童大明神はご利益のみ与えて決して罰を与えない、神格の高い神様だそうです。

お堂の中1 かっぱ寺

合羽橋本通りで毎年7月に七夕祭りが行われます。

以前は七夕祭りの時にお堂が公開され、河童の手のミイラを見ることが出来ました

もう見ることが出来ないのかな?と思いを巡らすと、

河童の手 かっぱ寺

あった!!!

かろうじて見ることが出来ました。

他にも色々、資料や作品が展示されいるみたいです。

(中に入りたい…)

河童の正体

さて、洪水に悩まされた人々を助け今もなお河童大明神として祭られている隅田川から来た河童は、一体何者なんでしょう?

気になったので隅田川についても調べてみました。

その中で隅田川沿いにあったと云われる水神の森という名称を見つけました。

水神…これは期待できるかも知れません。

現在は隅田川神社(東京都墨田区)として現存しています。

かっぱ寺のある台東区から行くと白鬚橋を渡った先となります。

どことなく物寂しい雰囲気のあるその場所にありました。

隅田川神社 かっぱ寺

隅田川神社(東京都墨田区)入り口

神社の案内版によると、

「荒川の下流・鐘ヶ淵を越えて大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼とした森が広がっていました。

人々からは水神の森とも浮州の森とも呼ばれて親しまれてまいりました。」とあり。

また、隅田川叢誌によると「水神船霊の両神を祀(文献では糸へん)きる故ふ水神の森と云…」

とあります。

どうやら、隅田川とそこで営みをする人たちを守護する神様が祭られているようですね。

水神であることには変わりはないが、合羽橋の河童とは関連が薄そうです^^;。

もう一つ。

元々は曹源寺(かっぱ寺)の前にあった池に住んでいて、いじめられている所を川太郎に助けてもらった後、隅田川へ移住した。』

というテキストがWebで見つけました。原文は下のリンクからどうぞ。

曹源寺(河童寺) ※[曹源寺 その③]の記事です

ネット上のみの情報で裏づけの確認は行ってません。

今回、河童の正体についてはあまり情報が得られなかったので、また何か分かればUpしたいと思います。

まとめ かっぱ寺の河童は江戸の力強さに在り

いつもお世話になりまくってる「台東区むかしむかし」(主に現代の小学生を対象にしたもの)の紹介によると、

「川太郎が工事を進めたものの私財は底を尽き工事が中止になった所で河童たちが現れ、人と河童が一丸となって(?)完成させた」

という、よりドラマチックな展開になっています。

江戸に生きる人々は、逆境・ネガティブな事柄を前向きに受け入れる特徴があると考えます。

今日でも続いている反逆のヒーローである平将門公への信仰。

もちろん現在に通じるゴシップ好きないい加減さもかね揃えてはいるが、闇を畏れると同時に受け入れ→ 一緒に乗り越えようとする。そんな力強さを感じずにいられません。

私財が底を尽き絶望的な状況になり、それを人間にとっては忌み嫌い・脅威の存在であるはずの河童が手助けし共に逆境を乗り越えた。

この河童に纏わるストーリーは、江戸に生きる人たちの特徴を鋭く捉えているのではないでしょうか。

文:妖怪館

浅草周辺の河童や関連ページ

関連サイト(外部ページ)

参考図書・資料

  • 台東区むかしむかし(台東区)
  • 台東区史 通史編2
  • 隅田川の伝説と歴史(すみだ郷土文化資料館)

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おまけ 本通りのかっぱさんたち

かっぱ寺のある合羽橋本通りのいたるところに、ユニークな河童のアートがありました。

まとめて紹介します★

かっぱのモニュメント かっぱ寺 かっぱのモニュメント かっぱ寺 かっぱのモニュメント かっぱ寺
東京東信用金庫かっぱ橋支店前 Asakusa69diner前 肉のさがみ屋前
かっぱのモニュメント かっぱ寺 かっぱのモニュメント かっぱ寺 かっぱのモニュメント かっぱ寺
食器極楽屋陶器店前 まんとう合羽橋店前 キンヘイ薬店前
かっぱのモニュメント かっぱ寺 かっぱのモニュメント かっぱ寺
     

他にも河童さんがいるかも知れません。探して歩くのも楽しいかも?!

寛永寺の水呑み龍
妖怪レポ番号08 2010/04/02


東照宮唐門の水呑み龍 寛永寺の水呑み龍

前回に続き、寛永寺建立にまつわるお話です。

日照りから江戸の人たちを救ったと云われる、木彫りの水呑み龍

現在の上野動物園。園内にある小松宮彰仁親王銅像あたりに、鐘楼しょうろう(鐘つき堂)が建てられました。
その時、名のある彫り師が4人集まり、鐘楼の4つの柱にそれぞれの龍が彫られました。これをきっかけに、不思議な出来事が起こります。

4人の中で京から来た左甚五郎(名は甚五郎で左利きなのでそのあだ名がついた)という彫り師がいたのですが、左甚五郎の龍の柱だけが水に濡れているのでした。

かつて鐘楼があった小松宮親王銅像 寛永寺の水呑み龍
雨雲に覆われた今の不忍池 寛永寺の水呑み龍
現在の不忍池 寛永寺の水呑み龍

一方、数日が過ぎると今度は不忍池に龍が現れるようになります。龍は池に沈み込み、しばらくすると水の中から現れ、雨雲と共に寛永寺へ消えていくのを目撃されるようになりました。

「左甚五郎の龍が、不忍池へ水を飲みに行く」

いつしか人々にそう囁かれるようになります。

そして、不忍池が干上がるほどひどい日照りが続いたある夏。

同じように激しい雨とともに龍が不忍池に現れ、干上がっていた池の水がどんどん増していく。するとやはり龍は雨雲と共に寛永寺の方へ消えていきました。

あくる朝鐘楼に行くと、左甚五郎の彫った柱だけ濡れていました。

「左甚五郎の彫った龍が不忍池の水を飲み、日照りが続いた時に再び市不忍池に現れ、水を戻したことで人々は難を逃れた」
まとめるとこうなります。

左甚五郎といえば日光の眠り猫など有名作も多いですが、「建築の際に人形に命を宿し働かせて、用済みになったら川に流して、それが河童になった」とう話も聞いたことがあります。

飲みに出た筈さ左の細工なり

このような川柳も詠まれているところから、匠としての評価のみならず、神がかり的な力を持った人物として多く知られていたのでしょう。

寛永寺の水飲み龍は、そんな人気彫り師のカリスマと人々の恵みをもたらす龍への素朴な信仰心から生まれた伝説なのだと思います。

伝説となった龍が彫られた鐘楼ですが、残念上野戦争の時に寛永寺と共に焼失したそうです。

しかしながら、柱の龍の像の部分は戦火を逃れたようで、東照宮唐門で実物を見ることが出来ました(2010年4月現在)。

向かって左側が昇り龍で右側が降り龍。対となっていました。

更に時と経て2025年。寛永寺の根本中堂にの創建400周年を記念して、国内最大級の龍の天井絵が奉納されるそうです。
新たな伝説が生まれることを期待しましょう。

上野の寛永寺に国内最大級の龍の天井絵 | 美術展ナビ

龍の彫刻のある唐門 寛永寺の水呑み龍
龍の彫刻のある唐門 寛永寺の水呑み龍

文:妖怪館

関連リンク:

東照宮公式ページ

参考書籍:

台東区むかしむかし(台東区)


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狐の穴稲荷(花園神社)
妖怪レポ番号07 2009/12/12


上野公園から秋には色とりどりの木々の生い茂る、とある石の階段を下る。

すると、花園稲荷神社へたどり着きます。

神のやしろに相応しく、ピンと張り詰めた空気の流れる境内。そこにひっそり佇む、穴稲荷で由来をご紹介します。

花園神社入り口 狐の穴稲荷(花園神社)

寛永2年。徳川家に今の上野公園にあたる土地を与えられた天海僧正は、そこに寛永寺の建立を始めました。

上野・不忍池一帯は、江戸城からすると鬼門(東北)の位置にあるからです。

そんなある日。天海僧正が夜眠りにつくと狐火と共に狐たちが現れ、「自分たちの住処にお寺が建てられ暮らしていけない」と訴えます。

寛永寺が建つ前このあたりは、狐の群れや色々な動物が住んでいました。

訴えを聞いた天海僧正は、狐たちが安心して住めるように穴を掘りその横にお稲荷様をまつる祠を建てました。

そして、多くの人に呼びかけて狐のえさになる油揚げをお供えさせて、狐たちは幸せに暮らせるようになりました。

というお話です。

入り口の説明にはこう書かれていました。

「 穴稲荷
正しくは忍岡稲荷しのぶがおかいなりと云い花園稲荷の旧跡である。

左奥のお社は、寛永の初め天海が寛永寺を草創の際に忍ヶ岡の狐の住みを失ったことをあわれみ一洞を作りその上に祠を建てて祀ったものと云われている。 」

穴稲荷入り口 狐の穴稲荷(花園神社)
穴稲荷入り口。魂が眠る静かな巣穴で、内部は撮影禁止となっております。
直接訪れてご覧下さいませ。
穴稲荷入り口 狐の穴稲荷(花園神社)
神社境内にて

どうやら穴稲荷は、人間の都合で行った開発によって犠牲になった動物たちを供養するために建てらたようですね。

一方、穴稲荷のある上野の山には上野動物園があります。
かつていたという自然動物とは別の形ですが、再び上野の山に動物たちが暮らすようになりました。

しかしながら先の太平洋戦争中で動物園の動物たちが殺処分され、またしても人間の都合で犠牲となってしまいました。
動物園内には犠牲になった動物たちの慰霊碑があります。

人間たちの他動物に対するエゴと憐れみや愛が交差して、時を重ね繰り返される。
上野の山は、そんな縁を感じさせる土地です。

穴稲荷へと続く階段 狐の穴稲荷(花園神社)
穴稲荷へと続く階段

文:妖怪館

狐の伝承や関連ページ

参考書籍

台東区むかしむかし(台東区)


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