現在、業務用の調理器具やサンプルなど立ち並び賑わいを見せる 合羽橋道具街 はかつて「新堀川」と呼ばれていました。
その新堀川の由来となった河童にまつわる伝説を紹介します。
庶民の文化が花開いた江戸の文化年間(1804-17)の頃の話です。
喜八が住むその場所は水はけの悪い低地で、雨が降ると洪水になり、人々は困窮をしていました。
そこで喜八は私財を投じ、排水をするために掘割工事で隅田川から水を流すという計画を建てました。
喜八はかつて隅田川の河童を助けたことがありましたが、この時隅田川の河童たちが駆けつけ工事を手伝い、掘割工事は完成しました。
そして、この河童を見たものは不思議と運が開けたと伝えられています。
やがて、繁栄の義人・喜八と共に祀られ、河童は「河童大明神」と呼ばれ福の神として親しまれるようになりました。
更に、合羽橋にある交差点付近にあった合羽橋の名称はこの伝承に由来すると云われます。(地元の武家屋敷の侍や足軽が、内職で作った雨合羽を近くの橋で乾かしたから…という説もある)
河童大明神は商売繁盛の神とされています。
土地に繁栄をもたらし人々に福をもたらた河童は、商売繁盛の神へと転化していったのではないでしょうか。
月日は流れ…江戸の中心は東京という都市になり、今は合羽橋道具街へと変貌と遂げました。
不思議な土地の縁を感じます。
さて。道具街の途中を曲がり、合羽橋本通りを進んでいくと…
境内のいたるところに
お堂の中への侵入はあえなく失敗しましたが、ガラス越しに覗く事が出来ました。
曹源寺の御姿の説明には
「波に乗る(時勢の波に乗る)立像(立ち上る)で、
左手に財宝袋を持ち、
右手で客と福を招く縁起の良い御姿」
とあります。
また、河童大明神はご利益のみ与えて決して罰を与えない、神格の高い神様だそうです。
合羽橋本通りで毎年7月に七夕祭りが行われます。
以前は七夕祭りの時にお堂が公開され、河童の手のミイラを見ることが出来ました。
もう見ることが出来ないのかな?と思いを巡らすと、
さて、洪水に悩まされた人々を助け今もなお河童大明神として祭られている隅田川から来た河童は、一体何者なんでしょう?
気になったので隅田川についても調べてみました。
その中で隅田川沿いにあったと云われる水神の森という名称を見つけました。
水神…これは期待できるかも知れません。
現在は隅田川神社(東京都墨田区)として現存しています。
かっぱ寺のある台東区から行くと白鬚橋を渡った先となります。
どことなく物寂しい雰囲気のあるその場所にありました。
神社の案内版によると、
「荒川の下流・鐘ヶ淵を越えて大きく曲がったこの地は、隅田川の落ち口(終点)で、かつて鬱蒼とした森が広がっていました。
人々からは水神の森とも浮州の森とも呼ばれて親しまれてまいりました。」とあり。
また、隅田川叢誌によると「水神船霊の両神を祀(文献では糸へん)きる故ふ水神の森と云…」
とあります。
どうやら、隅田川とそこで営みをする人たちを守護する神様が祭られているようですね。
水神であることには変わりはないが、合羽橋の河童とは関連が薄そうです^^;。
もう一つ。
『元々は曹源寺(かっぱ寺)の前にあった池に住んでいて、いじめられている所を川太郎に助けてもらった後、隅田川へ移住した。』
というテキストがWebで見つけました。原文は下のリンクからどうぞ。
曹源寺(河童寺) ※[曹源寺 その③]の記事です
ネット上のみの情報で裏づけの確認は行ってません。
今回、河童の正体についてはあまり情報が得られなかったので、また何か分かればUpしたいと思います。
いつもお世話になりまくってる「台東区むかしむかし」(主に現代の小学生を対象にしたもの)の紹介によると、
「川太郎が工事を進めたものの私財は底を尽き工事が中止になった所で河童たちが現れ、人と河童が一丸となって(?)完成させた」
という、よりドラマチックな展開になっています。
江戸に生きる人々は、逆境・ネガティブな事柄を前向きに受け入れる特徴があると考えます。
今日でも続いている反逆のヒーローである平将門公への信仰。
もちろん現在に通じるゴシップ好きないい加減さもかね揃えてはいるが、闇を畏れると同時に受け入れ→ 一緒に乗り越えようとする。そんな力強さを感じずにいられません。
私財が底を尽き絶望的な状況になり、それを人間にとっては忌み嫌い・脅威の存在であるはずの河童が手助けし共に逆境を乗り越えた。
この河童に纏わるストーリーは、江戸に生きる人たちの特徴を鋭く捉えているのではないでしょうか。
文:妖怪館
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現在の上野動物園。園内にある小松宮彰仁親王銅像あたりに、
その時、名のある彫り師が4人集まり、鐘楼の4つの柱にそれぞれの龍が彫られました。これをきっかけに、不思議な出来事が起こります。
4人の中で京から来た左甚五郎(名は甚五郎で左利きなのでそのあだ名がついた)という彫り師がいたのですが、左甚五郎の龍の柱だけが水に濡れているのでした。
一方、数日が過ぎると今度は不忍池に龍が現れるようになります。龍は池に沈み込み、しばらくすると水の中から現れ、雨雲と共に寛永寺へ消えていくのを目撃されるようになりました。
「左甚五郎の龍が、不忍池へ水を飲みに行く」
いつしか人々にそう囁かれるようになります。
そして、不忍池が干上がるほどひどい日照りが続いたある夏。
同じように激しい雨とともに龍が不忍池に現れ、干上がっていた池の水がどんどん増していく。するとやはり龍は雨雲と共に寛永寺の方へ消えていきました。
あくる朝鐘楼に行くと、左甚五郎の彫った柱だけ濡れていました。
「左甚五郎の彫った龍が不忍池の水を飲み、日照りが続いた時に再び市不忍池に現れ、水を戻したことで人々は難を逃れた」
まとめるとこうなります。
左甚五郎といえば日光の眠り猫など有名作も多いですが、「建築の際に人形に命を宿し働かせて、用済みになったら川に流して、それが河童になった」とう話も聞いたことがあります。
飲みに出た筈さ左の細工なり
このような川柳も詠まれているところから、匠としての評価のみならず、神がかり的な力を持った人物として多く知られていたのでしょう。
寛永寺の水飲み龍は、そんな人気彫り師のカリスマと人々の恵みをもたらす龍への素朴な信仰心から生まれた伝説なのだと思います。
伝説となった龍が彫られた鐘楼ですが、残念上野戦争の時に寛永寺と共に焼失したそうです。
しかしながら、柱の龍の像の部分は戦火を逃れたようで、東照宮唐門で実物を見ることが出来ました(2010年4月現在)。
向かって左側が昇り龍で右側が降り龍。対となっていました。
更に時と経て2025年。寛永寺の根本中堂にの創建400周年を記念して、国内最大級の龍の天井絵が奉納されるそうです。
新たな伝説が生まれることを期待しましょう。
文:妖怪館
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上野公園から秋には色とりどりの木々の生い茂る、とある石の階段を下る。
すると、花園稲荷神社へたどり着きます。
神のやしろに相応しく、ピンと張り詰めた空気の流れる境内。そこにひっそり佇む、穴稲荷で由来をご紹介します。
寛永2年。徳川家に今の上野公園にあたる土地を与えられた天海僧正は、そこに寛永寺の建立を始めました。
上野・不忍池一帯は、江戸城からすると鬼門(東北)の位置にあるからです。
そんなある日。天海僧正が夜眠りにつくと狐火と共に狐たちが現れ、「自分たちの住処にお寺が建てられ暮らしていけない」と訴えます。
寛永寺が建つ前このあたりは、狐の群れや色々な動物が住んでいました。
訴えを聞いた天海僧正は、狐たちが安心して住めるように穴を掘りその横にお稲荷様をまつる祠を建てました。
そして、多くの人に呼びかけて狐のえさになる油揚げをお供えさせて、狐たちは幸せに暮らせるようになりました。
というお話です。
入り口の説明にはこう書かれていました。
「 穴稲荷
正しくは忍岡稲荷 と云い花園稲荷の旧跡である。左奥のお社は、寛永の初め天海が寛永寺を草創の際に忍ヶ岡の狐の住み
處 を失ったことをあわれみ一洞を作りその上に祠を建てて祀ったものと云われている。 」
どうやら穴稲荷は、人間の都合で行った開発によって犠牲になった動物たちを供養するために建てらたようですね。
一方、穴稲荷のある上野の山には上野動物園があります。
かつていたという自然動物とは別の形ですが、再び上野の山に動物たちが暮らすようになりました。
しかしながら先の太平洋戦争中で動物園の動物たちが殺処分され、またしても人間の都合で犠牲となってしまいました。
動物園内には犠牲になった動物たちの慰霊碑があります。
人間たちの他動物に対するエゴと憐れみや愛が交差して、時を重ね繰り返される。
上野の山は、そんな縁を感じさせる土地です。
文:妖怪館
台東区むかしむかし(台東区)
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