妖怪道中記 民話・伝承編
伝承編-妖怪レポ番号13 2019/03/26
江戸時代。隅田川から現れ、水路の工事を手伝いその後祀られた「かっぱ寺の河童」3度目の妖怪レポです。
最初に伝承についておさらいしてみましょう。 内容は「台東区むかしむかし(台東区)」と浅草で見聞きした話を参考にしています。
まずは一つ目。
河童は隅田川から来ました。なので、被差別民が隅田川付近に実際に住んでいたのか探ってみました。
江戸の被差別民。古くから河原の者と呼ばれる通り、彼らは牛馬の皮をなめす工程で水を使うため川沿いに移り住んでいたそうです。
また参加した人権文化セミナーで某所を訪れた時のフィールドワークでは、弾左衛門たちが皮革の生産や刑吏の役割をおこなっていたのは、
「浅草亀岡町」
が中心だったという情報を得ました。
「浅草亀岡町」が隅田川沿いにあれば、皮革などで生計を立てていた「被差別民=河原の者」たちの活動拠点がそこにあったということになりますね。
そこで台東区の郷土資料から当時の隅田川・浅草周辺の地図を探し、見つけた地図上にて隅田川沿いに「浅草亀岡甼」の文字があるのを発見しました。
さらに寺を挟んで穢多村と記された場所があり、そこには「亀岡甼一丁目」とありました。(一応、具体的な場所は伏せておきます)
地図にこんな書き方して正直ヒドいと思いますが、「村」というからには生業の場だけではなく居住の場もそこにあったんですね。
つまり、「河童が来たという隅田川の近くで、被差別の対象だった人々が暮らしていた」ということになります。
さて、言い伝えのこの部分。
3.そんな時、喜八に恩があった隅田川の河童たちが応援に駆け付ける。河童は夜に現れ河川の工事の続きを行い、ついに完成させる。
隅田川の河童は、喜八ら工事にあたっていた人々のいない時間帯(もしくは期間)に工事を行っています。
台東区で子どもたちに読まれている紙芝居には「昼は人間・夜は河童がそれぞれ工事を行った」とありますが、この部分は紙芝居上で作られた設定なのか・伝承に基づくものかはちょっとわかりません。
服部英雄氏の研究で、ちょっと気になる内容を見つけました。
鎌倉の時代に遡りますが、重源上人という僧が中心となり狭山池(今の大阪)の改修工事を行いました。
その記念碑に工事に参加した人たちが記されていましたが、そこに「乞丐(こつがい)非人」とありました。これは、非人たちが治水工事に労働力として参加していたためと言われています。
※乞丐は乞食を指す
また当時強く影響を受けていた陰陽道に、一定の期間に土を動かすと土を司る土公神に祟られるのでその期間は避けるという「土用の禁忌」がありました。
差別を受けていた人々が、土用の禁忌の期間に関わらず土木工事に従事した事例が他にもいくつか紹介されてます。
禁忌の期間には一般の百姓は作業が出来ないが、「非人・河原の者たち(卓越する宗教者)は土公神の祟りをわが身いっしんに受け、タブーを克服出来たのが理由」とされています。
とは言っても工事を手伝った河童は江戸時代の話で、土用の禁忌は信じられていないでしょうからこじつけに近いですが(笑)、ちょっと通ずるものがあって面白いなぁって思いました。
さらに「タブーを克服した先祖から、治水の技術を隅田川沿いにいた河原の者たちが引き継いでいたら…」と想像も膨らみますね。
また、江戸で治水事業を進めていたのは幕府の代官や奉行。
治水や利水の労働力は基本的に地元の民衆に依るものだったらしく、この時代で被差別民は公的に担ってはいなかったようです。
河川の工事に行き詰った喜八を助けようと、隅田川付近で生活をする河原の者たちが手を貸し平民の人々と協力し合って工事を完成させた。
しかし、身分制度の厳しい時代。それをおおっぴらに出来ない事情が過程があって、後に河童として語り継がれるようになった。
そう考えると、「河童の正体が賎視されていた人たちだった」という説にも繋がるでしょうか。
隅田川の河童に限らず「かつて穢れとされ、賤視(差別)されていた人々」が、妖怪のルーツの一つと言われることがあります。
それは何故なのか。忌避されると同時に神聖視されるのは妖怪と重なると言えますが、柳田国男の弟子である民俗学者・折口信夫氏の「まれびと(ほかいびと)」に研究に具体的な言及がありました。
まれびとそのものについては、壮大で奥が深すぎて全容を知るにはちょっと時間が足りないので、今回触りだけで失礼します。
まれびととは古代に村の外の世界からやってきた旅する異人たちです。周期的に村々を訪れ祝言を述べ、異郷の神々を伝えて廻っていました。
こうした異郷の神々の群行は、村の人々に畏れられながらも受け入れられて来たそうです。
一方江戸で非人と呼ばれた芸能民たちは、歳末や新年の訪れと共に町に現れました。彼らもまた、時の境という神域に属する者とも言えましょう。
隅田川の河童伝承が生まれた当時は、芸能で喜捨を得て生活する被差別民と平民との距離が縮まり、身近に感じられるようになっていた。また妖怪自体も、神聖視よりキャラクター化が進んだ時代でもあります。
そうなるともし工事を手伝った被差別民が河童へと変貌したのならば、その変貌のプロセスは江戸の妖怪観から来るものではなく、もっと古く過去から受け継がれた「まれびと」にあるような被差別民への畏敬から来たのではないかと思います。
あと余談ですけど、人類みな妖怪のテーマになっている「各地に散らばる伝承の類似」も巡遊した異人たちにの口伝よるものだって指摘もあり、こちらもまた気になるところです。
河童3章では、かつて被差別民とされた人々についてこれまで(2020年3月)見聞きした内容で、隅田川の河童と関連性がありそうな内容をチョイスして紹介させて頂きました。
結論としては、
・被差別民(河原の者)は実際に隅田川周辺を生活の場としていた
・被差別民を河童とする(妖怪視する)のは、江戸の妖怪観からではなく古代からの被差別民への信仰に近い畏敬から来るものであろう
・隅田川から来た河童は、かつて治水などの土木工事を禁忌の時期に行っていた、河原者の子孫・もしくは技を受け継いだ人たちなのかも。
となりますかね。
信憑性は少し出てきた印象はありますが、なんともハッキリしませんね(^^;。
まぁ、妖怪とは正体がつかめない…本来そういうものだから。なんて言ったら言い訳になってしまうでしょうか。
河川の工事を手伝った河童の話は、台東区で紙芝居として語られ児童向けの書籍にもなっています。
異形の者であるが恩人である人間を助けるため駆け付け、異なるもの同士が協力して大変な治水事業を成功させる、大変ドラマチックな展開になってます。
「もし河童がかつて差別を受けていた人たちだったら」
物語とは異なりますが、タブーだったにもかかわらず身分を超えて協力をし合い、
後に忍ばれながらもその功績が称えられ、今もなお伝えらていれる。
本来なら人として後世に伝えるのが一番でしょうが、
「事実を隠してまでも後世に伝えていきたい」
古人にそういう思いがあったのなら?なんて想像すると、これはこれでムネアツだと思います。
文:妖怪館
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