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ブログ「雑記帳」

★ぶろぐ 妖怪雑記帳

白狐の祟りの伝説(川越 雪塚稲荷神社)

2024年6月24日(月曜日)

町内の人々は
「今晩は自分の家が焼ける番か、それともあすか」
と、恐怖におののき、
どこの家も安心して眠れなくなってしまった。

「これはきっと何かが祟っているに違いない」

有峰書店新社「川越の民話と伝説」より引用

火事のイメージ 素材ACより
写真ACより

イベントで二度ほど足を運んだ埼玉県は川越で、かつて人を祟り、それを鎮めるために祀られた白狐の伝説を聞き、訪れてみた。

「小江戸」と呼ばれ、観光地として町を上げて文化発信をしている川越。江戸の街並みを再現した観光客や呼び込みで賑わう一番通りを通っていく。

雪塚稲荷 妖怪館撮影
観光客らがキャッキャウフフしている一番通り
雪塚稲荷 妖怪館撮影
神社へ続く路地

そしてある路地を曲がり奥に行くと、木々に覆われた石の鳥居が見えてくる。噂の雪塚稲荷神社(読み方は「ゆきづかいなりじんじゃ」)が、静かな存在感を放ち佇んでいた。

雪塚稲荷 妖怪館撮影

記念碑によると、今の社屋は昭和50(1975)年に建てられたようだ。
江戸クラシックに統一された美しい建物が並び、活気だった一番通りの雰囲気とはうって変わり、
雪塚稲荷境内は、木々の隙間から古の息吹を感じ取れる異界の空間だ。

雪塚稲荷-妖怪館撮影
雪塚稲荷 妖怪館撮影
雪塚稲荷 妖怪館撮影

雪塚稲荷神社の歴史/白狐の伝説

先にも触れたが、白狐の祟りの伝説は雪塚稲荷の縁起にある。

江戸の雪深きとある夜に一匹の白狐が道を駆けていた。それを見つけた町の若い衆が、白狐を追い回し、なぶり殺した後、狐鍋にして食べてしまったことで、祟られてしまう。
祟りを畏れた町の人々は、鎮めるために白狐を祀った。それが祭神・雪塚稲荷大明神だ。

神社境内にある「雪塚稲荷略縁起」には次のようにあった。

当社は、城下町川越の十ヵ町の一つ、南町の氏神として崇拝されてきた。南町は、江戸から明治にかけて六十軒あまりの町であったが、江戸店を構える大商人を多く生み出し、明治十一年(一八七八)には県下初の国立銀行を開業させるなど、十ヶ町の中でも中心的な商業地であった。

神社の創始は、口碑に、「江戸の昔、ある大雪の夜、南町の通りに一匹の白狐が迷いあらわれた。これを見た若い衆数人が白狐を追い回してついに打ち殺し、挙句の果てにその肉を食したところたちまち熱病にかかり、さらに毎夜大きな火の玉が街に現れるようになった。町内の者はこれを白狐の祟りだとして恐れおののき、近くの長喜院の境内に社をたて、白狐の皮と骨を埋めて塚を築き、雪の日のできごとであったことにちなんで、雪塚稲荷神社と名付けて奉斎した」という。

明治二十六年の川越大火によって本殿、拝殿焼失、同三十年四月二十八日に再営した。その際土中のご神体を改めたところ、白狐の毛が逆立つのを認め驚いて再び埋納したという。

また、昭和五十五年社殿の修理中、床下中央部から石板が発見され、「雪塚稲荷神社遺躰文政六年二月十二日御霊昇天、同年三月十二日御霊祭日と定め同年同日雪塚稲荷神社と称す」との銘文があった。

文政六年(一八二三)以来、とくに商売繁盛に霊験あらたかさをもって知られ、町内のみならず、遠隔地の講中や近隣末社の人々の不断の信仰に支えられてきた神社である。

祭神 雪塚稲荷大明神

川越の民話と伝説(新井 博著)」などによると、白狐は王子の稲荷に行く途中であった箭弓稲荷やきゅういなり(埼玉県東松山市)の使いの狐だったという。
狐の中でも相応の祟りをもたらす神格の高さという事であろう。

一方川越の図書館で見つけた横関ひとみ氏による郷土研究のレポートでは、数多くある江戸の川越の民話に登場する狐はいたずら系が多く、稲荷神社と結びつく神聖さが見られないとの事だ。『町の商業発展で稲作の豊穣を祈願する稲荷信仰が衰退した歴史的背景があるから』と、氏は考察する。
そうなると雪塚稲荷縁起の伝説は、ちょっと特殊なケースとなる。

川越の歴史的背景を雪塚稲荷の伝説に当てはめると、若者たちが狐をなぶり殺したのは、稲荷大明神への軽視を意味しているように思える。
しかしながら町民が祟りを畏れ、鎮めるために祀り敬い、その後商売繁盛の神として厚く信仰される。
農業の衰退とともに失ったはずの稲荷信仰が、転じて商売の神として返り咲いたことを現しているようで、とても興味深い。

追記:川越キャラクターベースに向けて雪塚稲荷大明神のしおりも作る予定。お楽しみに★

神社の鳥居近くに咲いていたお花の写真 妖怪館撮影
神社の鳥居近くにて

雪塚稲荷神社へのアクセス

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