妖怪道中記 民話・伝承編
伝承編-妖怪レポ番号12 2019/10/27
江戸の妖怪を追ってはや何年…かはもはや把握してませんが(更新履歴見ればわかるけど)、書物あさったり話を聞きに行ったりする中でちょくちょく出てくるんですね。
江戸時代に穢多(えた)とか非人とか呼ばれ、不当な扱いを受けてきた人々の事が。
そして分かったことは、しろたは何も知らされていなかった事実。
浅草が、実はゆかり深い場所であったことすらも。
それでも自ら探し求めたら、たくさんの事が分かりました。正直、まだ理解しきれていません。
とりえず、概要だけ薄っすら見えて来た気がします。
なのでここで区切りとして、妖怪レポの一つとして纏めることにします。
ここの妖怪レポでは、明治より前に最下層と判断され・賎視や差別を受けてきた人々について調べたことを書いていきます。
私たち人類が積み重ねてきた営みの中で起きた、事実として書きます。しかし、今はこんな風にインターネットやメディアの普及で、様々な人種や価値観を持つ人々と繋がり・その違いを「個性として」共有(シェア)できる時代となりました。
なので、ここで取り上げる特定の人々に対する賎視や差別感は、もはや時代錯誤であり
今は不要なもの
であることを先に述べます。
また、ここに書いてある内容が今続いている部落差別の助長にならぬよう、細心の注意を払うつもりでいますが、もしそういう理由で改善すべき内容があれば、ご指摘なんぞ頂けると本当に助かります。
芝浦に東京都が運営する「食肉市場」があります。
全国の牧場から牛や豚が集まり、と殺から解体までの工程がすべてここで行われ、競りも行われます。
2024年に市場を見学する機会がありましたが、
機械化されたライン上で安全衛生の検査を重ねる中、それぞれの持ち場で日々腕を磨いている作業員の見事な手さばきを見ることが出来ました。
解体後は、食肉だけでなく日用品から医療品まで様々な用途に使わるそうです。
その食肉市場には苦情の手紙が届くようで、市場の建物にある「お肉の情報館」に展示されています。
解体前の「と殺」を行う作業員を非難している内容でした。どうやら食べる為に動物を殺す「人」が許せないようです。
「ならお前ら一生肉食うな」とツッコミを入れたいところですが(失礼)、一体これはどういうことでしょうか?
さらに手紙を一つ一つ読んでいると、「穢多」という日常目にしない用語を見つけました。
実はそこに、民衆の間で差別の意識が根ざしていった理由を知るヒントがありました。
特定の部落に対しての差別は、どのようないきさつ・理由があったのか。
探してみたら、部落差別問題の研究者による書籍がビックリするくらい数多くありました。人権問題に取り組む出版社が中心のようです。
またキリスト教の団体が取り組んでいる人権セミナーもあり、フィールドワークにも参加させて頂きました。
当方は無宗教(形式的には仏教)なのですが、お願いしたら許可してくれた次第。キリスト様マジ寛大です。
研究者によって異なる内容も当然ありますが、共通で言及されている事なんかを主軸に進めていきます。
まだ「日本」がなかった頃-。
朝鮮から九州に渡って来た大和の国は、日本列島の集落(国)を次々と支配していきました。
関連ページ:神代 日本の始まり(宮中祭祀と刀剣より)
これまでは狩猟中心のスタイルだったが、大和の侵攻により農耕の生活スタイルが広まる。それと同時に「死、殺生を穢れとする」思想が初めて日本列島に広まったというのが、網野善彦氏の見解です。
やがて、農業を生業とする平民以外の人々・職能民を神域との境界を繋ぐ特別な存在として、神聖視されるようになっていった、とも云われています。
時代が進んで中世に仏教が盛んになり普及が更に進むと、仏教の「死=穢れ」の思想から「殺生を行う人々を穢れそのもの」と結び付けられるようになりました。
それは、特別な存在として神聖視されていた人たちであり、牛の皮を剥いでなめして「革」にする河原の者や刑務にあたる人々でした。
前田 速夫氏による「白の民俗学」によるとその実例として_、
今では「トイレの神様」で知られている烏枢沙摩明王(ウスサマミョウオウ)の真言がありました。
1980年初めまで配布されていた真言の一部に、このような表現があったみたいです。
或遇旃多羅 もしはえたのたぐいの
屠者等穢人 けがれたるひとをみ
「屠者等穢人」は文字の如くですが、その上の「旃多羅」の部分がよく分からないですね。なので軽率にググってみました。
七祖-補註8 - WikiArcによると、元はインドの最下層の「旃多羅(チャンダーラ)」と呼ばれる身分の人たちで、母をも殺す凶悪な性格を持つとされていたようです。
旃多羅の境遇は過去世(=宿業)の行いの結果によるもの。それを日本の「穢多・非人」に結び付けられ、差別の合理化を支える役割も果してきた、とあります。戒名として刻まれることもあるようです。
また、<「旃陀羅」差別問題>学びを深めていくでは、仏教の旃陀羅もまた解決すべき現代の差別問題として取り上げています。
以上のことから、稲作と同時に大陸から渡って来た仏教思想が盛んになっていった。その時歪んだ形に転じて穢れの概念となった(もしくは旃多羅の考え方がそのまま継承された)のが、賎視の大きな要因の一つではないかと考えます。
さっきまでは宗教の影響・メンタル面の話でしたが、政治面でもいろいろあったようです。
まだ鬼や妖怪が現実のものであった時代。上に書いた通り、農耕以外を営む人々・死に関わる職の人々を神聖なものと畏れると共に穢れたものとして、忌避(きひ)していたいました。
戦国時代では、特殊な能力を持つとされた「職人」の中には戦国大名とともに参陣し、大きな活躍をした者もいたそうです。戦の武具調達に不可欠な皮革職人も戦国大名には欠かせない存在でした。
イラストACさんより
しかし、笹本 正治著「戦国大名と職人」によると、
「近世に直接つながる職人身分が確定された時であり、職業による差別意識が改めて大きくなる時代でもあった」
とあります。
戦国大名が国を安定させると、再び社会秩序を強固なものにするために、身分制も強化せねばならなかった。
それと、後の江戸時代の固定身分制度の前段階で、「職業の固定化」が進んでいったのも職業差別が強化されていった要因とも言われています(「中世の分業と身分制」脇田晴子氏)。
他には、織田信長やほかの戦国大名が、寺社などこれまでタブーとされた神聖な場所へ介入(比叡山を焼き討ちとか)していった事。各地で職人が増加したころにより、一般の人が身近に感じるようになった事。
この二つの理由で職人に対しての畏敬の念が薄れていったと、同書「戦国大名と職人」にありました。
つまり、職人に対して抱いていた「神聖なものとしての畏れ」と「穢れたものとしての忌避(きひ)」のうち、「畏れ」が薄れ、それにより「忌避」(賤視)が強まっていったということになるでしょうか。
さて、これまで調べた内容を振り返ると_
戦国時代が終焉をむかえ、死穢などに関わる人々への賎視は、
この2つが大きく変わりつつ、安定した江戸の政権が始まるわけです。
平和と安寧の陰で、差別という偏見が目が一層強まっていったと言えましょう。
まぁそれはさておき。
江戸時代の被差別民を知るうえで、外せない人物がいます。
長吏頭 弾左衛門です。
ネットの辞書や一部の出版物では、「穢多頭」「非人頭」と表現されています。
「穢多」の呼称は、徳川吉宗が幕府のお達しに使ったことに対して、「ひがごと(どうりに合わないこと)」だと言って弾左衛門自ら町奉行所に抗議したこともあったそうです。(人権文化セミナー連続講座より)
穢れ多き者。人権への配慮や蔑まれた人々への優しさが足りない表現だなって思ったので、うちではその書き方はしないです。
弾左衛門は徳川による江戸幕府が始まりから何代にも渡り、長吏・非人・猿飼い(猿回し)の頭としての権限を持ち、幕府公認で関東を中心に独自に支配していました。
書籍や研究資料などを見ると長吏の役割を非人が行ってたり、なんだかよく分からないんですが(すみません厳密な区分が無いのかも)、
いずれも生と死・もしくは神域との境界に関わる人々。それ故に「平民」と異なるとされ、差別の対象であった人々です。
写真にある高校は、弾左衛門の屋敷があった場所。手前にある公園は、かつて「山谷堀」と呼ばれ水路になっていました(案内板に書いてあった)。
人権文化セミナーの資料によると、敷地面積740坪とあります。その広大さから、江戸内で相応の権力・豊かな財力を持っていたことが伺えますね。
「(略)その裕福なるは町屋の分限者に倍するもありて家居また甚だ大きし、しかれども大旨家業穢悪にしてたまたま通行しながらも見るに忍び難し、(略)」
歴史の中の聖地・悪所・被差別民―謎と真相「遊歴雑記」より
ちょっと現代の話になりますが_
今の東京・浅草にはたくさんの靴屋さんがあって、同じ台東区の浅草橋では革の問屋さんや革製品のお店をよく見かけます。
その理由は、幕府が終わった明治初期に末代弾左衛門・弾直樹とその仲間たちによって、皮革産業の基盤を作り上げ・発展させたからと伝えられています。
また、江戸ではお仕置き御用の役で、刑死者の遺体の腑分け(解剖)を行っていました。
小塚原刑場のあった回向院(東京都荒川区)に、杉田玄白ら蘭学者たちが腑分けを見学したことで解体新書を完成される手掛かりを得た内容が、案内板に書かれていました。
室町時代に遡りますが、当時書かれた後愚昧記(ごぐまいき)のとある箇所にこうありました。
「此の如き散楽者は 乞食の所行なり。」
「乞食の所行」。散楽者に対する、現代のネット/SNSでも見られるような悪意の込められた一文であることが、分かります。
しかしながら、「此の如き散楽者」というのは能で知られる世阿弥のことで、後世日本の伝統的な芸術として昇華することとなります。
知れば知るほど賎視の対象であった人々は、江戸の社会の中で重要な役割を果たし、今の産業・医療・文化と様々な分野に貢献していたことが分かってきます。
しかし、ここでひとつ疑問です。
当時賎視されていた人々は、ただ忌み嫌われるだけだったのでしょうか?
治水工事を手伝った河童がその人たちだったと仮定した場合、特に重要になってきます。
ここからは想像ですが_
江戸という都市に人が集まり平民と被差別の民と距離として身近にはなれど、幕府ではなく弾左衛門の支配下にあり身分が区別される。
平民の人々から見て、「異質な存在で境界の先の、異界の者」であることに変わりはないのではないか、と思います。
第二章では「近世になって神聖なものとしての畏れが薄れていった」と書きました。しかし、
蔑まれながらも自分たちとは異なる世界・日常とは別の世界で、力強く生きていく人たち。
そこに、畏れ敬いや憧れの念を抱くことも少なからずあったのではないか?、と個人的に思います。
実際の被差別民は同じ人であるのに変わりはないのですが、その心情は現代の人々が妖怪へ抱く心情に似ているのではないか、とも思いました。
この度は初めて部落について紐解きを試みました。
いざ調べてみれば、穢れの忌避に同居する神聖視…そして広い分野への活躍や貢献など、その奥深さに興味が惹かれ魅力的に映りさえしました。
しかしながら、母校に弾左衛門の屋敷があったことを教わらず知らされず、それどころか「弾左衛門って誰ー?」状態でした。
(私が授業を真面目に聞いてないからではありません。決して)
これはおかしくはないだろうか。
そうなってしまうのは、無かったことにしようとする「穢れ」に対する差別の意識/風習が背景にあるように思えます。
その一方。人権セミナーでは「隠すことより知ってもらうことが大事」と講師の先生は話していました。
またここに書かれたものは、浅草の郷土を知る上で、ひいてはこの地に根付く妖怪伝承を知る上で、避けれらない事柄でもあります。
古臭い風習に従うだけでは今の時代、妖活は出来ません。
なので、「人々が排斥し合うことをやめ、差別を乗り越えていける足掛かりに少しでもなれば」
そんな儚い願いも込め、妖怪レポのひとつに加えることとなりました。
今回の妖怪レポは、此れにて終了です。
次回は妖怪情報サイトとしての本題、河童と牛鬼について新たに分かったことや気付いたことをUPしていきますよ!
最後の最後に、外部の者を講座に受け入れて頂いた日本キリスト教協議会様、いつも郷土資料でお世話になっている台東区中央図書館様にお礼申し上げます。
有難うございました。
文:妖怪館
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