小塚原刑場のあった回向院(東京都荒川区)にある案内板、「蘭学を生んだ解体の記念に」の内容です。
一七七一年・明和八年三月四日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分を見に来た。
それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持って来て、その図を実物とひきくらべ、その正確なのにおどろいた。
その帰りみち三人は発憤してこの本を日本の医者のために訳そうと決心し、さっそくあくる日からとりかかった。そして苦心のすえ、ついに一七七四年・安永三年八月に、「解体新書」五巻をつくりあげた。これが西洋の学術書の本格的な翻訳のはじめでこれから蘭学がさかんになり、日本の近代文化がめばえるきっかけとなった。
さきに一九二二年奨進医会が観臓記念碑を本堂裏に建てたが、一九四五年二月二十五日戦災をうけたので、解体新書の絵とびらをかたどった浮彫青銅版だけをここへ移して、あらたに建て直した。一九五九年 昭和三十四年三月四日