妖怪道中記 現代編
レポート番号3 2018/7/15
今回のレポを少し趣向を変えて、「祭祀に登場する刀剣について」でいきますよ!
娘に勧められて遊んでいるゲームに登場する日本刀「鶯丸(友成)」「鶴丸国永」が歳旦祭という宮中祭祀に用いられると聞き、
「日本の祭祀萌えとして、追求せざるを得まい!」
と思いいたったがきっかけです。
あとは刀剣乱舞のお陰で娘と鬼や妖怪の話が少し出来るようになったのと、他にもゲームがきっかけで色々ご縁を戴いた、そのお礼を込めて。
刀剣よりも宮中祭祀が中心になってしまった感はありますが、祭祀を通して日本人の魂のルーツに触れるような内容もあるので、広い心で読んで頂けると幸いです。
まずは歳旦祭に用いられるという刀剣「鶯丸友成(以下、鶯丸)」「鶴丸国永(以下、鶴丸)」について軽く触れておきます。
細かい来歴とか形状については長くなるので割愛しますよ。
銘:備前国友成
寸法:刃長二尺七寸(81.8cm)、反り九分(2.7cm)
刀工、刀派:友成、古備前
平安時代に存在していた刀工の一群である古備前派の中でも有名な友成の作。
鶯丸の通称の由来は明らかではないですが、室町時代に信濃国の守護大名・小笠原政康が足利義教より賜り、江戸時代にはその子孫の越前勝山の小笠原家に伝来したとあります。
その後は幾人かの持ち主を渡ってから明治に至り、田中光顕伯爵から明治天皇に献上され、現在は御物として皇室で所有されています。
(「【特別展】日本のかたな 鉄のわざと武のこころ」参照)
同じ銘が入った刀を東京国立博物館で見ることが出来ました。展示されている刀剣の中でもスラっと優美な印象を受けました。
友成作の太刀は多く現存されているようなので、拝観するチャンスは多いかも知れませんね。
銘:国永(名物 鶴丸)
寸法:2尺5寸9分半(78.6cm)、反り2.7cm
刀工、流派:五条国永、五条派
平安時代の最も古い刀工である三条宗近の子・または孫とされる(弟子と言う説もある)五条国永の作。
鶴丸の通称の由来も明らかではないですが、鶴丸紋の太刀拵(たちごしらえ)から付けられていたという説が有力とされています。
北条家は時貞以来に伝来した太刀で、その後織田信長の所有となります。
江戸時代には仙台伊達家にあって、明治に至り伊達家から明治天皇に献上され、現在は御物として皇室で所有。
(「【特別展】日本のかたな 鉄のわざと武のこころ」参照)
鶯丸同様、現在実物を見ることは出来ませんが(特別展などがあれば別ですが)、2019年3月まで京都の藤森神社で写しを拝観出来ます。
銘とは?:刀鍛冶が、自分の名前や年紀 (制作した日)、在住地、依頼者の名前などを茎(刀の柄に入る部分)に刻んだもの
刀の来歴などが気になる方は、こちらの外部サイトをどうぞ。
名刀幻想辞典「鶯丸」
名刀幻想辞典「鶴丸国永」
鋼月堂「鶯丸友成」
鋼月堂「鶴丸国永」
形状の説明はちょっと専門的なので、刀剣初心者にはわけ分からん知れません。頑張って!
歳旦祭は現在の皇居(東京都千代田区)内で行われる宮中祭祀の一つで、元旦の夜明けとともに行われます。全国の神社でも同時期に行われます。
宮中祭祀は歳旦祭の他に新嘗祭がよく知られてますが、全部で30以上あります。
大きく分類して大祭・小祭・旬祭と分かれますが、歳旦祭はその中で小祭にあたります。天皇以下ご自身で祭典をとり行わず、小祭は宮中の祭祀を司る「掌典職(しょうてんしょく)」がとり行い天皇が拝礼します。
皇室で行われる祭祀は神聖であるがゆえに秘儀であり一般には公開されないのですが、ネットや図書館通いなどで得られた情報をまとめてみますよ。
歳旦祭は元旦・午前五時半から行われる「四方拝」を終えた後に行われます。
掌典長が祝詞を上げ、宮中三殿と呼ばれる「賢所(かしどころ)」・「皇霊殿(こうれいでん)」・「神殿」を順番に天皇に続き皇太子が拝礼します。
拝礼の時天皇は、重要な儀式の際に着用するという「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう」。皇太子は「黄丹袍(おうにのほう)」を着るそうです。
賢所:三殿の中央に位置する。天照大神をまつる御殿。「おそれかしこむ(畏)」という意味があるらしい。※宮中祭祀とは|日本文化興隆財団より
皇霊殿:歴代天皇・皇族の御霊が祀られている。
神殿:国中・天地の神々が祀られている。
元日に夜明けと共に行われる歳旦祭は、年・月・日の三つが新しく蘇える日として以下の祝詞を上げるそうです。
「新しき月の、新しき日の、今日の朝日の豊栄登(とよさかのぼり)に美賀(みほぎ)の寿詞仕奉(よごとつかえまつ)る」
時が蘇える日に、その瞬間に、それを祝い、天皇が永久に続くように、五穀の豊穣、国民の安寧・繁栄を皇祖神である天照大神。そして天神地祇…天津神や天孫降臨前の土着の神である国津神に祈願するのが歳旦祭の由来とされています。
なので、小祭と言えど大切な役割と言えるのではないでしょうか。
皇室で行われている歳旦祭・宮中祭祀は何故行われているのか。ルーツはどこにあるのか。
そのヒントは、倭から始まった国が歩み積みあげて来た大きな流れの中にありました。
宮中祭祀の起源は日本書紀の天孫降臨にあると言われています。
天孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上の葦原中国(あしはらのなかつくに)に降りた際に、天照大神から鏡を授かり、「この宝鏡を吾(われ)と思い、鏡を奉る殿を作りなさい。」と命を賜ったのが由来だそうです。
鏡は日本の遺跡から多数出土されており、中には倭王権成立の時代のものと思われる鏡もあります。
東京国立博物館の解説では「4世紀になると、中国製の鏡をまねたり、日本列島独自の文様を表現した精巧な大型鏡が作られました。」とありました。
さらに、魏志倭人伝では邪馬台国と大陸の間で交易があったことが記されていたり、浅草の牛鬼では朝鮮から渡ってきた「牛頭天王(ごずてんのう)」と日本神話の「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」が習合されている事が分かりました。
つまり日本書紀に記された神話は、倭時代初期に大陸の信仰や風習を取り入れながら(もしくはベースにして)誕生したってことになりますね!
また、この時代から始まった農耕は人智が及ばない自然の天候によって収穫が左右されてしまう。そこで天の神を奉り→豊穣を願ったのが、五穀豊穣祈願の始まりと言われています。
五穀豊穣の祈願は歳旦祭の由来の一つになっています。
このことから歳旦祭・宮中祭祀のルーツは倭王権の成立。日本の誕生にあるのだと思います。思った以上に壮大になりました。
倭から大幅にタイムジャンプして江戸幕府の終わり。
ちょっと歴史の授業チックになって、「もう何べんも聞いたよ!」という方も多くと思いまいますがご容赦下さい。
江戸の末期。鎖国を続けてきた幕府ですが、オランダなど他国からの介入が頻繁となりこれまでの江戸幕府スタイルの政治では国の存続が危いという考えが生まれます。いわゆる維新派です。
他国に侵略されず、国として存続させるために世界を学び新しい国造りが必要となりました。その結果生まれたのが、天皇という君主が治める日本帝国でした。
そして、江戸幕府が終焉を迎えるまでに途切れていた祭祀は、明治維新後に再興されたり新しいく創出されていきました。
※1908年(明治41年)には、「宮中祭祀令」が制定され宮中祭祀は国家行事となりました
江戸城 無血開城を取り決めた「薩摩藩屋敷跡」
明治に復活したと言える宮中行事は、日本書紀にある天孫降臨から始まる国づくり。つまり王政復古を意識したものであったとも言えます。
国として存続させるために長きに渡って戦争にまい進していた日本帝国はやがて、1945年第二次世界大戦終結後、戦争放棄・世界平和への道を歩み、政権は国民に委ねられ、現在に至ります。
天皇もまた神格化された「現人神(あらびとがみ)」から国の象徴となりました。
宮中祭祀はどうなったかと言うと、戦争終結後にGHQ(連合国軍総司令部)が日本政府に向けた「神道指令」で皇室祭祀令は廃止となり、国家行事ではなくなりました。
国家行事でなくなった後は祭祀の多くは天皇の私的な行事となり、現在も続けられています。
ここで、神代から続く王政復古を意識して復活した宮中祭祀が、なぜ日本帝国が終わってもなお続けれらているのか。なんでだろう??って思いました。
現代に至っても、天皇陛下は様々な激務の中、年に30以上の宮中祭祀を行っているそうです。
「なんだろう」って思いながら日本書紀の原文を読み返して見たときに「あ!」となりました。
ここからは完全にしろたの妄想ですが、天孫降臨での天照大神の御ことばにあった「この宝鏡を吾(われ)と思い、奉りなさい」の部分は、
「倭の民が一つの共同体として、一つの家族であることを、後に続く子孫たちが忘れないように」
そんなメッセージがあるように思えたからです。
TVやニュースなどで、平成の天皇陛下が全身全霊で国民に寄り添い活動をされる御姿を幾度も拝見します。
そのご様子は、天照大神の御ことばをそのまま体現されているように思えました。
歳旦祭や刀剣ことを知るために、東京都内の博物館やお店をいくつか訪れました。
日本刀がまだ誕生する前の倭王権の時代から、刀は実用的な武器としてだければなく祭りの道具として使用されていたと言われています。
そして、三種の神器のひとつとして伝わる草薙剣もまた同時代に創造された日本書紀に登場します。
戦争終結後にGHQによる発令で皇室祭祀令が廃止なったと書きましたが、同時に一般人のもつ日本刀はすべて没収する命が下りました。しかし、美術品としての価値を主張する声が上がり、「美術品にしてかつ善良なる民間人の所有するものは許可する」ということに変わったそうです。
この事から、私たち日本人は古代から刀は神の力を宿すとし武器以上の特別な想いを抱いて来たんだなーって思いました。
今回歳旦祭に用いられる刀剣ってことで調べましたが、肝心の刀剣についてほとんど触れていません。
理由としては、「歳旦祭と結びつく刀剣に関して裏づけのある情報が得られなかった」のと、「宮中祭祀を紐解くには外せない歴史的背景があった」の二点にあるっス。
鶯丸・鶴丸について期待していた(刀剣乱舞の)審神者様がいたら、申し訳なくシクシク。
鶯丸・鶴丸に関しては、wikiの参照にあった宮内庁「御物調書」以外情報が得られず、御物調書の所在そのものの分からずじまいでした。悲しいことに。
もし本当に用いられているとしたら、「いつの時代からなのか」が重要になってくる思います。
鶴丸の後に献上されたのが鶯丸で、その年が1907年(明治40年)。
皇室祭祀令が施行されたのがその翌年。
歳旦祭の名前が用いられたのも宮中祭祀令の時からみたいなので、この時期の可能性が高いかな?と思ったりもしますが…。
1867年(慶応3年) | 王政復古の大号令 |
1894年(明治27年) | 日清戦争勃発(日本帝国初の開戦?) |
1901年(明治34年) | 鶴丸 明治天皇に献上される |
1907年(明治40年) | 鶯丸 明治天皇に献上される |
1908年(明治41年) | 皇室祭祀令制定 「歳旦祭」の名称が用いられる |
1945年(昭和20年) | 第二次世界大戦の終結 皇室祭祀令廃止 |
それから、かつて鶴丸が御神刀としてあったという藤森神社の藤森祭・祭神は天皇と深い関わりがあり、何か繋がりがあるのか(考え過ぎかも(笑)…気になることが盛りだくさんです。
歳旦祭の刀剣はいったん区切りますが、御物調書を中心に引き続き調べて行きますよー!ヨロシクです!
調べるにあたって、東京都内で色々な場所を訪れました。
東京国立博物館に、皇居にある三の丸尚蔵館に、千代田区の公文館。
秋葉原の刀剣茶寮さんにも寄らせて頂きました(「刀剣乱舞 花丸」のコラボイベントしていて若干オロオロしてました)。
刀剣だったり幕末の流れだったり日本神話だったり…。
押さえるべきポイントのたくさんあってジャンルもバラバラで纏められるか凄く不安でしたが、お陰さまでなんとか道中記レポを公開することが出来ました。
関わってくれた全ての皆さまに心よりお礼申し上げます。誠に有難う御座います。
文:妖怪館