妖怪道中記 伝承編

吉原遊郭 稲荷の謎 その参
吉原遊郭の稲荷と陰陽道の繋がり

レポート番号19 2026/02/21

吉原遊郭 稲荷の謎「その参 陰陽師村から吉原へ来た人々」

江戸浅草の地に息づく土着の神々と妖の影を追う、妖怪道中記は伝承編。
今回は、2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺」にて名を知らせた九郎助稲荷くろすけいなりをはじめとした
新吉原に祀られ、時の人々に親しまれた稲荷神社の謎と神秘へと歩を進める。

4部構成で順番にお届けしよう。

その参 本文はこちらから

その弐では、五つの稲荷の配置と陰陽道との繋がりの考察をまとめた。
この章では、その根拠となりそうな情報に触れたい。
新吉原新設での陰陽師関与の可能性、尾張屋清十郎をはじめとした須佐村から来た人々についてだ。

新吉原誕生と陰陽師

江戸時代にも陰陽師は健在であった。
中でも安倍晴明を祖とする土御門家は、朝廷と幕府から公認を受け、諸国の陰陽師を統括していた。

新吉原新設当時の土御門の当主は、土御門泰重(つちみかどやすしげ)
泰重は、五十間道に取り入れた反閇作法に書写の記録のある文書があるため ※反閇作法/吉川家文書[歴史民俗博物館所蔵]

当時の土御門陰陽師が取り入れていた可能性は十分考えられる。

安倍晴明を祖とする土御門家は、朝廷と幕府から公認を受け、諸国の陰陽師を統括していた。|吉原遊郭 稲荷の謎

また、建築の際には土地を清め、土公神や土地の神に許しを請う地鎮祭が行われるが、当時は陰陽師がこれを執り行っていた。
さらに、陰陽師は土木工事にも関わっていたとされ、かっぱ寺の河童 三 で触れた土用に工事を避ける「土用の禁忌」も陰陽道に由来するものだ。

これらを踏まえると、新吉原の建設に陰陽道の施しがあったとしても不思議ではないと言えよう。

陰陽師の里 須佐村から来た人々

ふかきもの 尾張屋清十郎

「尾張屋」の屋号を揚屋を営んでいた尾張屋清十郎という人物がいる。
「吉原大全」にも名が記されており、新吉原遊郭に進出し、奉行所の命により郭町の管理(統制)を担ったとされる。揚屋清十郎/松本清十郎という呼び名もある

江戸で名の知れた人物であったが、彼には二つの興味深い逸話がある。

その1.道祖神を勧請した

遊女が遊客に手紙を送る際、封じ目に「かよふ神、くわんじわう」と書く習慣があった。|吉原遊郭 稲荷の謎

遊女が遊客に手紙を送る際、封じ目に

「かよふ神、くわんじわう」

と書く習慣があった。 これは、手紙が無事に届き、遊客が再び訪れるよう願いを込めたもの。

「かよふ神(通ふ神)」は道祖神を指し、「くわんじわう」は勧請を意味する。 この道祖神像は尾張屋清十郎の家の庭にあり、「吉原大全」には次のように記されている。

「昔揚屋町尾張屋清十郎方にかよふ神を勧請せしも、
此里へ来る遊客、往来の節、障りなからん事を祈る故とぞ」

つまり、通う神の風習は、尾張屋清十郎が道祖神を勧請したことに由来があった

その2.不動尊に願掛けして井戸を掘り当てた

尾張屋清十郎が揚屋に居住した際、廓内に井戸がなかったことを愁い、不動尊に願掛けして井戸を掘ったところ、名水を得たという。

1と2の逸話が示すもの

  • 道祖神を勧請した。
  • 不動尊に願掛けして井戸を掘りあてた。

これらを踏まえると、尾張屋清十郎が何らかの神職的素養を持っていた可能性は否定しがたい。

尾張万歳と陰陽道

正月には大黒舞・角兵衛獅子・大神楽などの門付け芸が遊郭を賑わせた。
その中に尾張万歳の一行もいた。

尾張万歳は愛知県知多市に伝わる門付け芸。
めでたい時には万歳|東海市公式ウェブサイト

万歳師を含む尾張の者たちは日常的に出入りし、大門で咎められることなく、「尾張屋に行く」ことが一種の通行手形になっていたという。
吉原の尾張屋と尾張万歳の繋がりを示しているが、実はこれが、尾張屋清十郎と陰陽道を繋げるものでもあった。

というのも、尾張の万歳師も土御門家に属していた。

さらに東海市公式サイトによれば、

「江戸当時は陰陽師たちが行っていた」

とある。つまり、

  • 尾張屋清十郎(吉原)
  • 尾張万歳(知多)
  • そして土御門系陰陽師

この三つが一本の線で繋がる。


陰陽師の里 須佐村

愛知県知多半島にはかつて須佐村という港町があった。
領主の柳家は代々土御門グループに属する陰陽師で、須佐村は万歳師を抱える土御門系陰陽師の集落の一つだったと考えられる。

そして、尾張屋清十郎が須佐村の出身であることを示す文書が複数残されている。
尾張屋清十郎(吉原)と尾張の知多との繋がりは、吉原研究というより東海地方の郷土研究で明らかにしているようだった。
知多の郷土研究者 澤田次夫氏の論文や東海地方の地誌に見られた。

現在の知多の海(marine328氏/フォトAC)|吉原遊郭 稲荷の謎
現在の知多の海(marine0328氏/フォトAC)

須佐村の光明寺には尾張屋清十郎の墓があり、古い過去帳には次のように記されている。

詠誉光山浄月信士 元禄五申三月十二日 尾張屋松本清十郎
満誉昌詠秋月信女 元禄十丑五月十六日 松本清十郎

さらに、光明寺の祠堂金(寺に寄進した金額)の帳面にも次の記述がある。

一、七月七日之永代施餓鬼祠堂金戴拾両為二親并一家之諸精霊
追善 江戸浅草 尾張屋清十郎 巻之而己

ここに「江戸浅草」と明記されているため、新吉原の尾張屋清十郎と同一人物であることが確定的となる。

澤田次夫氏の研究によれば、寄進額は当時としては莫大であり、須佐村から吉原へ多くの人々が進出し、須佐の経済が潤ったという。

さらに港町として栄えていた須佐には多くの遊女屋があったため、色街を経営する下地/ノウハウを持った人たちが多かったと考えられるので、これも須佐人の吉原進出の裏付けとなる。

また知多には、黒鍬衆(くろくわしゅう)という普請に優れた技術をもつ現場のプロ集団がいた。
西まさる氏は、土御門家配下の知多の陰陽師が設計し、黒鍬衆が新吉原建設に加わった可能性を指摘している。

その参 まとめ

もし、須佐出身の尾張屋清十郎や土御門系の陰陽師たちが
新吉原建設に携わっていたとしたら――

五行を示した五社の稲荷の結界をはじめ、陰陽道に基づく霊的守りが、吉原遊郭のあらゆる空間に張り巡らされていたとしても、
決して不思議ではない。

文:妖怪館

その参 陰陽師村から吉原へ来た人々参考文書

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