妖怪道中記 伝承編
レポート番号17 2026/02/07
江戸浅草の地に息づく土着の神々と妖の影を追う、妖怪道中記は伝承編。
今回は、2025年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺」にて名を知らせた
新吉原に祀られ、時の人々に親しまれた稲荷神社の謎と神秘へと歩を進める。
4部構成で順番にお届けしよう。
人形町の旧吉原から北浅草の新吉原へと移された折、
四隅に据えられた松田稲荷・開運稲荷・九郎助稲荷・明石稲荷・榎本稲荷、そして吉徳稲荷。
これらはすべて、新たな吉原の地を護るために建てられた社々である。
稲荷の由来へ踏み込む前に、まずはこの「新吉原」という地そのものに、
ひとつ触れておきたい。
戦国の世を駆け抜け近世となっても、性の欲求は食欲と同じく切実なものであった。
江戸の都市部に集まる人々の受け皿として、そして莫大な収益を見込んで、吉原遊郭は設立された。
遊女たちはかつて「遊女歌舞伎」と呼ばれ、芸能者としての一面を持っていた。しかしその人気はあまりにも高く、危険視されて弾圧される。
遊郭が出現した大きな理由は、「演劇から追放された遊女たちを遊郭に集めたため」とも言われている。
(やがて遊女の芸能以外の側面が注目され、その役割は別の人々に委ねられていった)
明暦2年(1656年)頃、日本橋人形町から浅草北側へ移転し、新吉原が誕生する。
新吉原遊郭は驚いたことに昭和時代まで続き、売春防止法が施行された昭和33年(1958年)に解体された。
吉原の行事の多くは農業行事を母体とし、都市の民間行事とも連携していた。
花びらき、端午の節句、七夕の節句……それらは客を呼び込む重要な催しであると同時に、季節を象徴する祭事でもあった。
正月には大黒舞・大神楽などの門付け芸が入り、遊女も見物した。
また、吉原の秋祭りとして欠かせないのが
絵師・喜多川歌麿の浮世絵にも多く描かれ、稽古を重ねた吉原の芸能衆による踊り屋台が、旧暦8月1日(新暦9月中旬)の八朔の日から30日間にわたり街を練り歩いた。
遊郭を中心としたこうした独自の文化が形成され、吉原遊郭は江戸の多くの人々が憧れを抱く魅惑の異界へとなっていった。
そして、遊郭と遊女の美麗さや品格・高度な遊興を維持するため、呉服屋や香木屋江戸中の商人に金が巡り、巨大な経済圏を形成していくのだった。
文:妖怪館
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