「妖怪とは何か?」
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神田明神、鵺塚、もんじゃのお店・河童まつりのレポートです。
白いもやは、偶然写ってしまった人へのプライバシー保護です。残念ですが霊障ではありません。
今回のレポートは、三姉妹のお姉さま方が経営する「かっぱ祭り」というもんじゃ・お好み焼き・鉄板焼きのお店です。
お店に入ったときの様子ですね。
障子の先には、畳の客席があります。テーブル席もあります。
昔の看板とかさりげなく貼ってあったり、昭和初期を思わせる和風モダンな雰囲気の店内。
新しいお店で中は河童のイメージとは違い(失礼)オシャレ綺麗なので、ムサイのダメ派の女性でも安心して入れそうです。
ここへ来て、「な~んだ、かっぱの要素が全然ないじゃん」
と、思ったそこのアナタ!
ここからです。
店内には河童の置物が!
こちらの作品は、どうやら河童の家の模型の様ですね。
興奮してか写真がブレてしまい申し訳ありませぬ。
全国各地から集めた河童の関連グッズなんかも置いていました。
一口に河童といっても、その土地土地でのそれぞれの背景があり、それぞれの特徴があります。
展示品もそれぞれ個性的で、まさにその事実を表しているかのよう…。
やはり河童は素晴らしい。
お勧めメニューはやはり、三種類のもんじゃがセットになってる「かっぱ三姉妹」とお好み焼きヴァージョンの「かっぱ三兄弟」でしょうか。
あと、個人的には塩キャベツが好きです(笑。
今回、初めて「取材」を申し込んでの調査であったが、忘年会ピークの忙しい時期に来てしまった。深く反省…ノヘ。
お忙しい中、御協力いただき本当に有難う御座いました。
なお、かっぱ祭りへは
東京メトロ銀座線の田原町駅・つくばエクスプレスの浅草駅から歩いて行けます。 Google地図を表示
水曜日はお休みで、平日は夕方からなので御注意を。
おしまい
クリックすると商品カタログページが開きます
お次は、大阪に行った時の「ぬえ塚」です。
ぬえは、平安京で
退治されたのち祟りを恐れ葬った塚が、今の大阪市都島区にあると聞き、家族旅行の合間に訪れました。
ぬえ塚の解説は以下の通りです。
「 鵺塚
近衛天皇の仁平3年(1153)京の御所・紫辰殿に夜ごと「鵺(ぬえ」という怪獣が現れ、帝を悩ませていました。侍臣の源三位頼政が矢で射落したところ、この「鵺」は頭がサル、胴がタヌキ、四肢がトラ、尾がヘビの姿をしていました。
これを丸木船にのせて淀川に流したところ、当時湿地帯であったこの地に漂流しました。
祟(たた)りを恐れた村人たちは、土に埋めほこらを建てて「鵺塚」と呼び、ねんごろに祀ったと伝えられています。
現在の塚は、明治の初め大阪府が改修したもので、ほこらも昭和32年(1957)に地元の人々によって改修されました。
この「鵺」のデザインは大阪港の紋章として使用されています。 」
ぬえというのは、具体的な正体は別として、「人の手に負えない自然の一部であったに違いない」としろたは考えています。
そんな妖怪に対して、善悪に囚われず恐れ敬う日本人の姿勢は、とても粋だと思うし無くなって欲しくないものです。
その日本人の粋を遠い地で垣間見る事が出来たので、なんだかとても嬉しく思いました。
それから驚いたのが、ぬえが大阪港紋章の一部になっていた事です。
京都で射殺された妖怪を、大阪港のシンボルに持ってくるとは凄い!!
ぬえが紋章を守っているように見えますね。人の手に負えない神がかり的な力で守ってくれているのでしょうか(^^。
何はともあれ、恐れ入りました。
おしまい
さてさて。
館主しろたの年始の行事は、かの平将門公が祀られている神田明神の初詣でございます。
記念すべき道中記の一回目では、神社の紹介と初詣の様子を少し…お伝えする事としましょう。
ちなみに、将門ファンによるレポートなので、多めに見てやってください(何を。
企業や経営に関わる人なんかが、「よく訪れる/実際に訪れた」って話を聞きます。
秋葉原~神田という地理的な理由もあるだろうけど、むしろご祭神に関連がありそうです。
ご祭神は平将門命以外に、七福神で有名な
境内のご祭神それぞれの説明には、
とありました。
「国土経営とか」「商売繁盛」とか経営に結びつきそうなご利益がありそうですね(^^。
加えて、将門公はかつての未開の関東に新たな国を作ろうとした人物。その開拓精神は、現在の経営の精神にも通ずるのではないでしょうか。
館主の勝手な妄想なので、経営に携わる人が実際にそう考えているかはわかりませんが(爽。
話は変わって、境内に「神田明神資料館」があるのですよ。
将門公に関する資料が数多く有りました。もちろん、神田明神の歴史や祭りなどに関する資料も多く展示されてます。
写真撮影はダメなので、中の様子の画像はありません。
資料館に、将門の
「 将門の凧 江戸にあっては将門の図柄のものが多かったと言う。朝敵といわれた将門の凧が空に舞ったのは江戸以外ではあまり見られなかったという。 」
朝敵であっても、当時の江戸の人たちにとって将門公は悪政と戦った英雄だった事が伺えます。
一方では崇り神とされていますが、東京の守り神として崇拝され~語り継がれているのは、かつての江戸庶民の意思の様なものが現代に引き継がれているからだ。
そんな気がしてなりません。
あと、ちょっと変わったお札とかの紹介をしようと思ったけど、それは来年にとっておきます。
おしまい
神田明神公式ページ